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アサマde ブログ - 201807のエントリ

止まない豪雨、動かない熱波

カテゴリ : 
桐と創る低炭素社会
執筆 : 
asama 2018/7/29 23:05

 壊れ行く地球号、温暖化を阻止する有効策は桐!

「直ちに命を守る行動を取って下さい…」アナウンサー、気象庁職員の絶叫が連日の如く流れている。

かねてより危惧されていた温暖化による気象が劇的に変化に向かつてスピードを上げている。

私はかって東京オリンピックが決定された直後から「異常気象でまともな開催は出来ないだろう、又北半球における最後のオリンピックになるだろう」と警鐘

を鳴らし、開催都市には桐で木蔭を…」と時のオリンピック担当大臣に幾度も手紙を届けた、もちろん無回答だつた。

産業革命以後、失つた50%の世界の森林のスピーディな復活と、化石資源の使用量を産業改革以前に戻す削減が無ければ2030年には氷河期に突入する、と報道されていたNHKの特別番組に刺激を受けてから書き続けて来たエッセイは、建築家を中心に政、官、学、産80余名の方々に発信し続けて来た。(NHKは2030年と幸艮じていないが、IPCCの日本代表はTVの前で語気を強くしている。)

なぜ桐か!

●写真が示す様に杉の6倍のスピードで成長する桐はC02吸収マシンである。

●断熱性は同じ厚さで建材に用いた場合、ナラ、ヒノキ、ケヤキの2倍の効果を示す。化石資源を原料にした断熱材をlgとして用いる必要はない

●調湿効果が高く、床、壁、天丼に用いた場合、外気の湿度変化に比べ、室内では横一線の数値を示す。更にセラミックより多くの遠赤外線を放出する。

●耐火性においてはI,S,0の基準に基づいた防火戸60分耐火実験にクリアする程高い耐火性能がある。(主材として用いた場合)

●耐腐性、耐蟻性が強い我が国には築後400年以上の古建築が15000棟残つているが、桐を土台に用いた家は土台を交換した形跡が無い(林野庁OB八重樫良暉著桐と人生より出典)又桐は白蟻が近寄らない。

●一般の本材は芯部、辺部があるが桐には無い。そのため割れる事が少なく、集成した場合、総合的に強度はナラ、ケヤキ、杉等に比較して優れている。

●耐水性桐は水を吸わなく抗菌効果も高い事から床、土台に用いた場合、大雨による浸水後においても徽の発生は無い。

●lヵ月間の平均気温が-4℃以上であれば世界のどこでも育つため、70億人総出で参カロ出来る。

以上の性能から桐を適切に用いる事により、爽快で長期の性能を持つビルや住宅を建設する事が出来る。

戦後復興住宅実物展(内務省主催昭和21年)で京都帝国大学棚橋研究室の作品総桐住宅が一等賞を取つている。木材輸出大国アメリカの外圧のため住宅文化

として継承されなかった。

地上から10km?15kmの間で覆つている温室効果ガスを取り除かない限り温暖化は阻止できない。幸い温室効果ガスの主成分C02は空気より重いため、C02の補給をしない限り地上に降りて来る。それを超早生樹桐に吸収させる方法で解消に向かう事が可能である。

紀元前300年前に出版され現在に残る中国の百科事典「爾雅」には90種類の木材が紹介されているが、桐だけは特別な樹種として記述されている。庶民が何の不安も無く生活できる国には必ず桐の森が繁っていた「神の鳥鳳凰は桐の森にしか棲まず、優れた統治者が現れると群れをなして桐の森に集まり、甘酒を酌み交わして讃えた。」との記述がある。永い地球の歴史では幾度も氷河期、間氷期が繰り返されたであろうが、桐が安定した気象に果たした役害」は大きく、中国の古代百科事典にメッセージとして残されたのだろう。

やがて桐は我国東北地域(会津)に渡り天皇家の家紋になっている(もう一つは菊)内閣総理大臣にだけ桐の御紋章の使用が認められている。

世界の建築家、政治家、IPCCの諸兄の視線の先に桐が目に入つて欲しいものである。

かつて国連は桐とそっくりなファルカタを砂漠化の進む国々に植えさせた歴史がある。但しファルカタは建材として使い物にならなかつた事から、大失敗に終

わつている。今新たに私のレポートが外務省地球気候変動課に渡つているが、国連への提案として活用される事を期待している。

2018年7月21日

「桐で創る低炭素社会」著者

黒岩陽一郎

 句会から帰宅した妻が「こんな素敵な人形頂いたのよ」と私に自慢した。手のひらに乗る程の小さな作品だが、作者の素朴で優しい心が牧歌的な形になっていて、遠かりし日が彷彿と目に浮かんで来た。

平林孝子作

私は一般的生活の中で女性の一番美しい姿の一つは、正座して裁縫箱の前で針仕事をする光景と思っている。幸福を感じる音を選べと言われれば、早朝台所から聞こえてくる俎板の音、暖かい声と言えば「御飯ですよ~」「行ってらっしゃい」「お帰りなさい」である。人生80歳に手が届く年齢になると、数え切れない思い出が故郷の山河と重なり、郷愁となって五体に蓄積されている。平林孝子さんの人形を作る情熱の美しさが目に浮かんだ。国家が貧しかった戦後の昭和21年小学校に入学した私にとって、貧しかった悲しかったとの記憶は無い。村の全ての大人が父親でもあり、母親であった。危険な遊びをしていると大声で叱ってくれた。私の産まれた臼田町諏訪伊勢地区は職人の町でもあり、建具屋、染物屋、畳屋、経師屋、大工、桶屋、活版所、写真屋、自転車屋、銭湯が軒を連ねていた。ランドセルを背負っての下校時、好奇心旺盛な少年達にとって退屈などなかった。働く姿の逞しさ、物造りの面白さが目に焼き付いて成長した。

五軒組なる頑丈な制度があり皆絆で結ばれていた。冠婚葬祭は裏方役の全てを、味噌仕入れも皆で共同で行っていた。子供が産まれるとお金を出し合い女の子であれば雛人形、男であれば鯉のぼりを贈っていた。誰かがよその結婚式に出席してごちそうを持ち帰ると、五軒組の皆にお裾分けをしていた、そんな心強いコミニティの中で子供たちは守られていた。学校の運動会は布が無い時代もあり、メリケン粉の入っていた印刷の残る粉袋をバラシ、下着や運動シャツに母親たちが作ってくれた。子だくさんの家では布の鯉のぼりをバラシてパンツにしたため、鯉の目、鱗のパンツやシャツが校庭を走っていた。今の様にユニフォームは無かったので、自分の子や孫がどこを走っているかは一目でわかり家族ぐるみ夢中で応援したものである。格差社会はなく皆が同じ状況だったので、貧しさ等感じる事は無く、今にして思えば心豊かで幸福な時代だった。現代、物が溢れている時代、物を手に入れる幸福を感じる機会を失った不幸の時代でもある。

休日は子供も大人も総出で田畑の仕事に精を出した。唯一の機動力は大きな農家が飼育する牛だった。お茶の時間になるとあちこちで車座が出来、賑やかな笑い声が田園に響いていた。平林孝子さんの手造り人形は忘れかけていたそんな時代に私をタイムスリップさせてくれた、小さな目まで細い糸で仕上げた手の込んだ人形だからである。大型ショッピングセンターに足を運べば溢れるばかりのぬいぐるみの販売を目にするが、私にとって頂いた人形に勝るものは無い。句会に参加している人々一人一人に思いを馳せて創った作品には、一つ一つの顔形が異なりその思いが魂となって込められている。私は日頃エッセイを書き、約80余名の方々に配信しているが、どの作品を書く時でも必ず読者の中の一人に向かって書く様心掛けている。人形の創作と相通じる点があり、より強い感動を受けたのかも知れない。私の古い友人に安藤土遊と名乗る粘土人形の作家がいた。彼は様々な人間の仕草をユーモラスに作品にしていたが、若くして他界してしまった。今でも私の家の宝として写真は残っているが、今回平林孝子さんの作品も加わって私達を温めてくれる宝物が一つ増えた。

2018年7月7日

*読者の中でご希望の方には差し上げて欲しいと、多少お預かりしております。

メールにてご希望をお知らせください。

北斎画 

第二回パリ万博(1867年)を契機に北斎の版画という手法を用いた作品は、美術の量産として世界の美術産業に大きな進化を与えている、更に富嶽三十六景に代表される繊細な色彩と遠近法はセザンヌ、モネ、ゴッホ等のその後の作品に反映されている。一つの物体を多方面から描くピカソも北斎から色彩を学んだのでは、との論評がつい最近の日経新聞で取り上げられている。世界の北斎は私が語るまでも無い巨星だが、ここでは彼を育てた小布施町に触れてみたい。

江戸文化を尊び
人口を増やさず減らさず「田園都市」で潤う文化の里

50年ぶりに北信濃の小布施町を訪ねた感動したのは半世紀を経た今でも小江戸の町並みは変わらず、私が見る限り鉄とコンクリートのビルは建っていない。住宅も甘いコマーシャルソングに誘われ、建てた大量生産の軽々しい住宅は無く、本格的木造建築と京壁が長い庇(ひさし)で建物を守っている。

小路を行き交う観光客は古建築を背景にロマンある旅人の絵になっていた。約200年の時を経て今だに、江戸の原風景をそのまま残して郷愁が見える町並みである。

50年前訪れた時、小布施の未来への方針は人口を増やさない、減らさないとのモットーを聞いたが、今も当時と変わらない人口1万人前後で推移している。現在の日本の行政の多くは人口を増やす事が優れた行政としながら町中は空家だらけ、農地は歯止めのかからない住宅建築で失われ、耕作放棄地は全国で滋賀県とほば同じ50万haを越し、コミニティを失った寒々とした風景になっている。この町には小布施堂、竹風堂、桜井甘精堂との商号で日本の栗菓子を寡占する三大メーカーがある。農家は栗を生産すれば買主は決まっているから安定した村の産業が成り立つ、その他リンゴ、良質な果実を生産しバランスある産業となり、豊かで安定した暮らしが営まれている。更に年間100万人の観光客を国内外から集めている(人口1人当たり100人の観光客)いわば絵に描いた如く潤いのある田園都市を形成している。この町に構造的な貧困家庭は存在しない。葛飾北斎はこの地を心の棲家とし、83~88歳までの晩年、集大成の時間をこの町を拠点として活動している。

北斎83歳の時、江戸から230キロの道を歩き小布施の豪農商高井鴻山を訪れ、鴻山のパトロンの申し入れを快く受け入れ、生活の保障を得て、江戸との交流を活発にしている。高井鴻山自身文人画家でもあったが、北斎とは親子ほど若く、米を中心とした豪商で藩の財政を支えていた。そのため江戸幕府にも顔が効いていた事から、北斎が小布施に移住する以前から後ろ盾となり、美人画ばかりを描いていた北斎に十分な画材を与え、富嶽三十六景を始め次々と大作を発表させている。富嶽三十六景の中の代表作「神奈川沖浪裏」の仕上げも天保の改革などで治安が

小布施2 不安定になった江戸を離れ、人情の厚い平和な町小布施で仕上げたのではと私は推測している。この時代人生50年が通常だったが、北斎は明治維新の19年前「富士越龍」を描き90歳で没している。「年を取る事は老化する事ではなく、進化する事である」との名言があるが、北斎は正にそのお手本として小布施からエネルギーを吸収し、長寿を重ねた偉人であった。小布施の近くで産まれた小林一茶の句「やせ蛙負けるな一茶ここにあり」と詠んだ池のある事でも知られている、小布施の岩松院に残された天井画は、遥か200年の時を経て、絵の具が今にも滴るが如くの迫力に満ちている。北信五岳(飯綱、戸隠、斑尾、黒姫、妙高山)が見下ろし、悠然と流れ万葉集でも詠われている信濃川と、広大な空間に吹く風と重厚な寺院、家並、蔵、路地、風習を頑なに大切に守り、いわば博物館の如くの町で人々は生活を続けている。花を愛し、造園を好み、オープンガーデンをしている家は、130軒に上る。転居すること93回、改号30回と波乱万丈だった北斎が選んだ心の町小布施は、資本主義経済(マネー経済)が行き詰まりを見せる中、地産地消の素朴で頑丈な生産経済の強さを永く実践している揺るぎの無いまほろばの国である。

先のエッセイでは、下諏訪の「万治の石仏」と岡本太郎のパワーを書いたが、葛飾北斎も又北信濃の大自然の風と、小布施の人々の人情を絵筆に集中させ、大胆かつ繊細な色で創形化し、世界の美術界をリードした巨匠であろう。

2018年6月20日

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