<?xml version="1.0" encoding="UTF-8"?>
<rss version="2.0">
  <channel>
    <title>アサマdeドットコム</title>
    <link>http://asama-de.com/</link>
    <description>信州のスローでアートな田舎暮らし応援サイト・東信州より情報発信中！！</description>
    <lastBuildDate>Thu, 28 Aug 2008 08:40:52 +0900</lastBuildDate>
    <docs>http://backend.userland.com/rss/</docs>
    <generator>黄金のうたたね</generator>
    <category>ブログ</category>
    <managingEditor></managingEditor>
    <webMaster></webMaster>
    <language>ja</language>
        <image>
      <title>アサマdeドットコム</title>
      <url>http://www.asama-de.com/images/logo.gif</url>
      <link>http://asama-de.com/</link>
      <width>144</width>
      <height>80</height>
    </image>
            <item>
      <title>アレグロ・モデラート</title>
      <link>http://asama-de.com/modules/weblog10/details.php?blog_id=18</link>
      <description>やっぱり、変だよね。タバコのさ。自動販売機対応認証システム（？）。単純に店売りにすれば済むことだと想像力を働かせいいのに。禁煙ムードなのだから、いっそのこと自動販売機は撤去すればいい。年中、タバコの煙を吐き出している人間でもそう思うよ。膨大なデータを一ヶ所で集約したんだろうけど、その先が気になるよね。不思議なことが平然とまかり通っているなと感じる。エコの名前で買い替えを進める自動車メーカー。とことん使ってこそエコじゃん。テレビCMを止めますが、エコじゃん。エコの名を借りた戦略はたいしたものです。エコのリサイクルも同じね。ビンにしたら。リサイクルでもっとエネルギーを使うよ。オール電化も同じこと。原発のゴミはどうすんのさ。未来永劫ゴミを残すし、維持管理するのに化石エネルギーは必要だぜ。停電の時は〜。まあ、選択は個人の自由と言うことにしておいて、パソコンの不安定な通信手段を使っている者も同じようなものか。エコは所詮人間のエゴで癒しも嫌らしい欲望だから。とまあそんなことは、眼の隅にでも止めておこうと。目先の熱狂には冷静な視線を！狂気と背中合わせの世界が確実に広がっているけど、イコールで思いやりが虚飾になってしまった。テレビを見たのがいけなかったのか。夕立のような雨が目の前を通り過ぎ、稲妻が光っている。そうやって全てを洗い流して、清涼な空気に変えてください。ヒンヤリとした風は体をリフレッシュさせてくれます。透明度の高い水晶がやってきた。以前のに比べると恐ろしく透明でピュア。前のが黒ずんで見えるほど。また、彩雲を目撃。このところここぞと言う時に出てくれる。運転中なので消えないで待っててと言いつつ（傲慢だよね）目的地に到着。見事な彩雲を眺める。ゆっくり消えてしまった。またしても傲慢に「写真を撮るまで消えないで」と言ってしまった。前よりも鮮やかな状態で再登場。いいアングルで写真に収め。さらに、彩雲をバックに記念撮影。10年ほど前はダブルレインボーばかり見ていたけれど、このところ見かけない。シングルの虹ばかり。雨上がりにはつい虹を探してしまう。時間が経つのが速い。速くなっているのか。加速度的に。自分の頼りない直感を信じて波に乗るきゃなさそうだ。</description>
      <pubDate>Mon, 09 Jun 2008 17:38:04 +0900</pubDate>
      <guid>http://asama-de.com/modules/weblog10/details.php?blog_id=18</guid>
    </item>
        <item>
      <title>アダージョ・デ・モルト〜3</title>
      <link>http://asama-de.com/modules/weblog10/details.php?blog_id=17</link>
      <description>日々行き交うなかで目をこらさないまでも、視覚に飛び込んでくる物たちの後を追う。興味のないものは目の前に置いてあっても、意識しない。ところが、興味のある物だと遠くにあってもググット引き寄せられるように目に入ってくる。背後に遇っても同じで常に全方位的に認知してしまう。好きな物、興味のある物を優先的に嗅ぎ分け、興味のないものはその存在すら認識しようとしない。物が氾濫しているなかでも常に求めている物に対し敏感になる。どこにいてもキラリと光る。人との流れも同じようで、波がある。特定の情報があるときは怒濤のように押し寄せ。また、ピタリと凪ぎになる。波は程よい加減で来る。次に来るときは大きな波としてより確信に迫った内容を伝える。ここ数年、凪いでいた状態に変化が来ている。月は白銀のようで、日の出と日没の太陽は穏やかだ。知識から体験として、認識の世界の扉を開けて細胞の隅々で感じることが出来るかだ。自己意識の拡張は、次へのステップ。事実かどうか確かめるすべは無い。だが、それはそれとして手の中に入れておこう。今ここに何故。という大きな命題を知ることが出来る。同じように与えられた時を重ねる意味を知りたい。どこから来て何処へという素朴な疑問を持ち続けたことへの一つの答えが見えてくる。</description>
      <pubDate>Fri, 23 May 2008 12:00:32 +0900</pubDate>
      <guid>http://asama-de.com/modules/weblog10/details.php?blog_id=17</guid>
    </item>
        <item>
      <title>アダージョ・ディ・モルト〜2</title>
      <link>http://asama-de.com/modules/weblog10/details.php?blog_id=16</link>
      <description>目の前の満開の桜が突然の風にあおられて、フワーッとあたり一面が桜吹雪になった。一本だけ孤高に花を咲かせる桜の樹の前を何気なく通りかかった時の出来事。呆然としてしばらく立ち止まってその樹を見上げながら桜吹雪に包まれる時を楽しんだ。夕暮れ時の人気のない桜の樹はいい。静かで静かでゆっくり会話ができる。足元にはピンクからオーカーへと色あせていく花びらがクルクル舞っている。風の流れをそのまま目に見えるように見せてくれる。小さな男の子が「こんにちわ」と声をかけて通り過ぎて消えた。庭先の桜の古木を伐採。数年前から枯れ始めていた。強い風がふくと枝が折れて落ち始めていたので思い切って切り倒した。残念だけれど。薪として活かす。山桜が2本残っているので遅咲きの桜を見よう。庭の梅が散って桃の花が終わると山桜が咲く。マンサクの花が春の訪れを知らせ、山桜が最後かな。今年は庭仕事にも精を出そう。毎年そういっているな。想像力は創造力とイコールだと痛感する。想像力の欠如が時代を動かしすぎている。欲望と傲慢の連続がテレビ画面を覆っている。悲しくなる出来事ばかり。同じ現実なのに信じられないことが繰り返し、繰り返しだ。足元には小さな花さえも精一杯の全生命をかけて自身を謳歌している。しゃがみ込んで見ている時、自分も今ここに生きていることを思う。羽化したばかりの蝉の幼虫のようにやわらかい葉をつけ始めた樹々がいとおしい。そして、一緒に暮らしている犬の目の奥には常に見つめている今だけが見える。</description>
      <pubDate>Fri, 18 Apr 2008 12:34:17 +0900</pubDate>
      <guid>http://asama-de.com/modules/weblog10/details.php?blog_id=16</guid>
    </item>
        <item>
      <title>アダージョ・ディ・モルト</title>
      <link>http://asama-de.com/modules/weblog10/details.php?blog_id=15</link>
      <description>植物がソワソワ、モソモソしている季節です。春ですと言うとまったくノーテンキ。日々、春霞や黄砂がかかったグレーの脳ミソが眠気をさそう。さてさて、ふらふら町に出てみればリクルートスーツという変な衣服を着込んだ若者がゾロゾロ通りを行き交う。外見で自分を規定している様子が痛々しい。仕立てのペラペラさは精神の貧困を助長する。どうせなら上司を超える身だしなみにしろよと言いたくなる。スーツとネクタイほど楽な隠れ蓑はないということか。それは、それでいい。その人の選んだ人生だ。「だったらよけいなことは言わずに黙っていろよ」と声が飛んでくる。某さんのコンサートに行った。そのとき参加したギタリストの■さんの演奏が収穫。ボーカルではなくギターの演奏のみに耳を傾けた。久々のヒット。滑らかでメリハリのあるピッキングとギターさばきは気分を高揚させる。クラプトンを意識しているのだろうが、紡ぎ出す音が体内を駆け巡った。3秒待つということ。次の動作をする時に「3秒待つ」。単純にすべて3秒待つ。その間にすべては滑らかに時は過ぎる。特に自己中心的になった時は効果絶大だ。一瞬、間をおくということだ。一瞬先に起きる物事を呑み込むことができる。だからアダージョ・デ・モルトのリズムが耐えられない時は要注意。何かのトラブルが起きる兆候。3月は「大丈夫」と言う言葉を教えられた。出会いというものは風のようにやってくる。そして、しばらく吹きまくってまた静かになる。そのつど確信に迫っているとは思うのだが。確かめるすべが無い。そんな自分が実に頼りない。もっとも確かめようはないが。それはそれと受け止めておくしかない。今後どのような展開になるか見守ることだ。</description>
      <pubDate>Thu, 03 Apr 2008 14:11:51 +0900</pubDate>
      <guid>http://asama-de.com/modules/weblog10/details.php?blog_id=15</guid>
    </item>
        <item>
      <title>ウツロイユク時ヲカサネテ</title>
      <link>http://asama-de.com/modules/weblog10/details.php?blog_id=14</link>
      <description>時間が空いた。思いがけなくポッカリとフリータイムになった。あたたかい日射しに誘われるまま、時を過ごす。ものすごいスピードで動いている時が止まった感じ。アレ、こんなにゆっくりと時は流れていたんだと思う。意識して流れるままに身を委ねている日々だけれど、改めて時間の流れを意識すると思いのままに時というものが創られていることを知った。両手をいっぱいに広げると昇る太陽と没する太陽が丁度その中に収まる。そんな場所から、移動する太陽（というより自転している地球だが）を日がなのんびり観ていると、雲の流れと共にまだ生きていることを実感する。ア〜ッ。ただただ、あったかい日溜まりが体を溶かすようだ。タバコを自動販売機で買わないからいいのだけれど。自動販売機でタバコを買うにはカードが必要とか。自動販売機を廃止して店頭販売だけにすればいいのにと、感んがえる人はいないのか。私はタバコを吸っていますと自分のデータを提供していいのかな。酒類の自動販売機はどうなってんのか知らないけれど。面倒なシステムの構築はエネルギーの無駄使い。温暖化がどうのこうのといっているのならいっそのこと止めた方がいいよね。顔を見ながら買っていたタバコ屋さんの方がいいのにな。自動販売機に入っていない銘柄のタバコ吸いとしては様子を見よう。面白い雲を見かけます。龍のように立ちのぼっていた雲。明らかに見慣れた雲とは違う異質な雲と出くわしました。</description>
      <pubDate>Tue, 04 Mar 2008 12:03:20 +0900</pubDate>
      <guid>http://asama-de.com/modules/weblog10/details.php?blog_id=14</guid>
    </item>
        <item>
      <title>日々のうつろいのなかで</title>
      <link>http://asama-de.com/modules/weblog10/details.php?blog_id=13</link>
      <description>庭のオリーブの木やローレルの巨木に雪が積っているが、マンサクの花が咲き始め、庭の土は軟らかく温かい。土を踏むと春の匂いがする。先月下旬から急に冷え始め、薪ストーブが大活躍だ。薪集めをサボっていたので不安だったが、何とかこの冬はクリアーできそう。今年の目標は、薪用の木を集めよう。何年分も用意した薪はこの冬で底をつく。良い機会なので家の回りの掃除も兼ねて徹底的に整理した。日中、太陽の光が射していれば暖房はいらない。夜間と明け方だけ暖を取るためにストーブに薪を入れおきにしておけば十分暖かい。デジタルカメラなのか、意味も無いくらい連続してシャッターを切る音が聞こえる。いくら何でもここでそれだけの枚数のカットはいらないだろうとよけいなお世話だが思わず顔を見てしまった。絞りも何も変えないで何枚撮影しようが構わないが。デジタル故の悲哀を感じてしまう。デジタルカメラは便利ですよ。どんな状況でも撮影結果に近いものが確かめられるし、仕事に使う上ではミスを最小限におさえられますから。気に入らなければその場で削除できるし。ただ、試写対と会話することが出来ない。「撮るよ」「撮らせてね」といったちょとした気持ちですが。写真を撮る時の愉しみの一つを失っていくような気がする。単なる写す道具であって、視神経の延長ではないなと。フイルムカメラだと現像するまでどう写ったか分からない。頭の中では撮影した時の情景が鮮明に残っているだけにそのままのイメージかと思いきや違っていることも多い。でも、そのとき以上の場合もあるから面白いし止められない。カラー写真は情報量が多く饒舌すぎる。その点モノクロームで撮った写真は想像力を膨らませてくれる。販売しているモノクロームのフイルムの種類は少なく絶滅危惧種になりそうだ。豊かなトーンは何ものにも替えがたく楽しませてくれる。サクサク動かなくてもイ・イ・ヨ。思考回路には人それぞれの流れがあるから。急ぐ人のアトを追うと足元が見えなくなる。同じものを見ていても自分の見たいようにしか現実を見ていない。それでも人はチャント生きている。君は誰と聞かれたら。私は私と言えるかだ。</description>
      <pubDate>Tue, 12 Feb 2008 15:26:19 +0900</pubDate>
      <guid>http://asama-de.com/modules/weblog10/details.php?blog_id=13</guid>
    </item>
        <item>
      <title>日はまたのぼる3</title>
      <link>http://asama-de.com/modules/weblog10/details.php?blog_id=12</link>
      <description>夏の忘れ物をベッドの下で見つけた。グレーの色をしたヘヤーバンド。あれからもう1ヶ月経ってしまう。そこにあの人がいた証だ。蝉も鳴かない猛暑の日々が懐かしい。どこかに何かを忘れてくることができたら、どんなにいいだろう。多くの人たちと出会い交わってきた消すことのできない記憶。「どうして」「まさか、あなたまでが」と「あなたには良く判っているはず」「もう十分だ。違う道があることに気づかせてもらったのだから」と呟いた。あれから、5年が経っていた。しゃにむに、探した。道があることに気づきはじめた。頭の片隅で幼い子どもが薄笑いを浮かべながら。「君は何をしたいのだい」「自分の好きなことをやってるの」「自分の人生を生き抜くことだよ」「みんな手ぶらで行くんだよ」「心の中にたくさんの宝を持っていくだけなんだ」と思い出したように顔を出して話しかける。「君のいうことは分かっている」「でもね」と呟くしかない。ただ、いつも一緒にいて見守っているもう一人の自分を見失なうなか。湖面はいつもさざ波がたっていて、物の形象が見えない。鏡のように全てを映すことができるのか。風が吹いていないと全ては淀む。水も流れを止めたら淀んでしまう。一瞬、静止した湖面に自分の姿が映るが、さざ波で姿を消してくれる湖面は美しくありがたいもの。また、いつか姿が湖面に映るだろう。そのときの、自分の姿をしっかり見極める目を持って。</description>
      <pubDate>Thu, 13 Sep 2007 12:07:11 +0900</pubDate>
      <guid>http://asama-de.com/modules/weblog10/details.php?blog_id=12</guid>
    </item>
        <item>
      <title>日はまたのぼる2</title>
      <link>http://asama-de.com/modules/weblog10/details.php?blog_id=10</link>
      <description>蒼い布をはられたような空が深く黒い山の緑の向こうにある。空だとは思うが、空気感がまるで感じられない。ただ、あるという感じだ。そんな夏の空を飽きずに見続けた。銀色に光る点がその中を移動している。上空にゆくと手に取るように地上の建造物や海を行き交う船が見える。人の姿さえ見えそうだ。雲の多いときは入道雲が柱のように幾つも立っているのが見渡せる。都会の片隅で日射しを避けながら座り込んで、人が行き過ぎるのをただぼんやり眺めている。そんな時間が好きだ。人がビルの谷間を急がしそうに歩いている。仕事・遊びなどなど目的を持って歩いている姿に感心する。買い物袋を持った人、スーツ姿で汗を拭きながら歩いている人。いま流行の田舎暮らしというより、田舎で生活の糧を得ていると、都会の雑踏は刺激になる。あ〜ぁ！人は生きているんだなと思う。そして、人がイトオシクなる。これだけの人が通り過ぎてもみんな違う生活をしていることに驚く。行き過ぎる雲のように同じものはないことを実感する。傍観者として眺めていたら、その様子を見られていたということもある。見知らぬ場所で、視線を感じる。その方向に眼をやると目が合うこともざらだ。そうやって、人は生きているのだろう。そして、もっとも良いタイミングで事が運ぶ。日々のうつろいも、うまい具合にコントロールされている。無理に予定を組むより。曖昧なまま流していた方が事が順調に進む。ツボを押さえたかのようにスムーズに流れる。壮大な時という時間軸の流れは奇妙な生き物だと感じる。人もその中で泳いでいるのだけれど、それとは別の時間軸がちゃんと用意されているのかもしれない。クマゼミの鳴き声はまだここでは聞こえないが、大形のクツワムシを見かける。そして今年はオオムラサキは顔をみせない。</description>
      <pubDate>Tue, 04 Sep 2007 14:38:32 +0900</pubDate>
      <guid>http://asama-de.com/modules/weblog10/details.php?blog_id=10</guid>
    </item>
        <item>
      <title>日はまた昇る</title>
      <link>http://asama-de.com/modules/weblog10/details.php?blog_id=9</link>
      <description>噂の分杭峠へ行った。松川からの帰り道に立ち寄った。10年ほど前に比べ道路事情はグット良くなっている。大鹿村を抜けて分杭峠に入る。大雨でも降ればひとたまりもないような場所だ。急斜面に仮設のベンチがある。足元に注意しながら、湧き水を持参した水筒に入れる。「生では飲めない」という注意書きがある。「今日は人が少ない」とそこの主のような人は言う。それでも4人ほどの人たちがベンチに座っていた。清涼感とも言える霊妙な場を楽しんでいたが、ドヤドヤと数人の男女が場を占領し始めたので退散した。ここの水は三峰川の源流で下流の美和湖をへて天竜川へと注いでいる。ここに生い茂った樹木は優しい。峠を下ると「ゼロ磁場の秘水」として販売している。売り子の気のいいおじさんが「昨日は多くの人で賑やかだったが、今日は少なくていい時に来た」と話す。なんだか、得した気分になる。家に帰り、その水でコーヒーをたてた。うまいの一言に尽きる。後味の良さといい、何とも形容しがたい味だ。水のことで言うと、真田の瀧宮神社から湧き出る水も良いはずなのだが、最近池の水が白濁している。相変わらず池のほとりに立つと鯉が必ず寄ってくるのだが。烏帽子岳を含む山のエネルギーが吹き出している場所だ。強く降ったとおもえば、ピタリとやんで青空が見えたりの天候が続くけれど、やんだ後の露を見ながら散策する気分はいいもの。こんな時にしか巡り遇えない自然の宝庫が至る所にある。豪雨による災害が頻発しているが幸いここは雨雲が切れる場所だ。</description>
      <pubDate>Thu, 12 Jul 2007 20:54:43 +0900</pubDate>
      <guid>http://asama-de.com/modules/weblog10/details.php?blog_id=9</guid>
    </item>
        <item>
      <title>日々のうつろいは</title>
      <link>http://asama-de.com/modules/weblog10/details.php?blog_id=8</link>
      <description>どのような偶然が重なったのわかりませんが、先日の愛知県の事件には幾つもの不思議な文字が並びました。総ての登場人物は木に関係ある名前が付いていました。何とも形容しがたい事件について、個人的視点で記載することは不謹慎ですが何とも言えない偶然の重なりに唖然としました。木曜日に事件が起こり、次々と名前が報道される木内・林・森と苗字がすべて木にくくられていました。とまあ、客観的に（当然ですが）事件の推移を珍しくニュースでながめていたのです。当の本人が、日々忙しさに流されているので今更ながら遠い日の出来事です。過ぎてゆくものが時なのか、来るもが時なのか判りません。今ここで、こうやって文字を連ねている今の連続なんだろうけれど、もう終わろうとしている5月で大きく変化しました。半年が過ぎて、これからが楽しみです。さらにどんな脱皮現象が待ち構えているのかと思うとソワソワします。何のことやらさっぱり判らんというのは当然で、実に個人的出来事が起きた訳です。人生には出発の時があるということです。常に怠りなく、波に乗る用意をしていないと波に乗ることはできません。また、波そのものも見えないかも、気がつかないかもしれません。どこにでも、常に足元にあるはずなのですが、なかなか気がつかないようです。しばらく休止していた自分やりたいことに手を染められます。まあ、冬眠からさめたというか、解凍したとでもいいましょうか。まあ、オッ！いいぞといった塩梅です。草との共存の日々です。畑も草が生えてきています。梅雨前に少しは草を刈っておこうとするけれど伸びる草の姿を観ると、それはそれで美しいのでなかなか草刈り鎌を振り下ろせません。木々も日陰になる部分を落としてはいるものの、なかなかその先まで切れないものです。イノシシも時々きては堆肥所をかき回しています。そうそう今年は野鳥が多いですね。窓辺から手の届く所に来ては騒いでいます。メジロ・ホオジロ・オナガなどなどまるでたまり場状態です。</description>
      <pubDate>Thu, 31 May 2007 15:55:46 +0900</pubDate>
      <guid>http://asama-de.com/modules/weblog10/details.php?blog_id=8</guid>
    </item>
      </channel>
</rss>