まずお知らせ....今日なんですよ!!!
日程:2008.5.3(祝日)
@上田市troubadour the LOFT(トゥルバドール・ザ・ロフト)アコースティックナイト(19時スタート)にも「坂口由起子ダダルカ」出演デス。
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....で、ワタシ、映画音楽などやるようになってからクラシック出身と間違えられること多い。先日のFM番組出演でもそう思われてたし、スタジオミュージシャンからもプロデューサーでも昔からの私を知らない方々は結構そう思ってる人多いんです。しかしわたしゃギター歪ませて喜んでるオジサンだす。ブルーノートの響きが好きだし、8ビートのグルーヴが....ってなところ。
で、まあそっち(欧風アカデミック)出身じゃないですが、じゃあクラシックはどうなの....的な話をたまにはねえ。
実は普段クラシックは殆ど聴かないが、昨年CM (TOYOTA プリウスの海外VERSION)でチャイコフスキーの「ピアノ協奏曲1番」をアレンジしたので改めて聴いたりした、その前の年はやはりTOYOTAハリヤーハイブリッドキャンペーンCMでベートーベンの「皇帝」の冒頭部分をアレンジしたので、この時はスコアを見ながら聴いた。また昨年サッポロビールのCMではガーシュウィンの「プレリュード3番」をアレンジした。もっともガーシュウィンは半分ティンパンアレイなポップの人ですが。他にはグリークの「ソルベイグの歌」、ビゼー「カルメン」、スメタナ「モルダウ」、シューベルト、サティ(この方はアカデミックな作曲家ではない)、バッハなどなどたくさんアレンジしてる。
しかしなんといっても好きなクラシックといったらドビュッシー、ラヴェル、ストラヴィンスキー、バルトークといった近代現代の音楽だろうか。言葉としてはなんか変?好きなクラシックは近代現代って...確かに。
ドビュッシーでは管弦楽曲「海」「ノクチュルヌ」、ピアノ曲では「ゴリウォーグのケイクウォーク」や「プレリュード第1集2集」、また「弦楽四重奏曲」もいい。ドビュッシーはそれまでの和声に革命を起こしてしまったほんとうの天才と言える人だと思う。発想も凄いし、形式にもこだわらないので管弦楽を書いても4楽章の交響曲とか書かないし、3楽章の協奏曲も書かず例えば「ピアノと管弦楽の為の幻想曲」という自由な形式にしている。もう王侯貴族をパトロンにしてた時代ではなくなり、新しい美意識の感覚を誰より早く掴み、そこのリアリティを感じて古い音楽形式をすべてぶっ壊してしまったのだ。その壊しかただがドビュッシー以後のドイツ、オーストリア系の才人たちは12音技法など数学的に壊していき、東欧系では民族=ナショナリズム的を取り入れ改革していったが、ドビュッシーはまるで映像的に、というか情緒よりも情景というか、そこが素敵な感じ!
ドビュッシーはピアニストとしても超一流だったらしい。ホールトーンスケール(全音音階)も面白いし、テンション感覚はそれまでのクラシックにはなかった。ガムラン音楽やアメリカ黒人のラグタイムの影響も受けた。前奏曲集など聴いていると、ぶっとんでいて夢の中に舞い込み戻ってこないような展開がとてつもない才能を感じる。ドイツ系の音楽が人間の生きる本質にせまる硬い音楽だとすると、時に説教されてるようだが(あの第9なんてほんとう説教されてる気分になる...決まって暮れにやる習慣かんべんして〜!)、フランス人の音楽は基本的にぶっ飛んでいても、音楽は楽しみ、快楽、という雰囲気がわたしゃ合っている。ロマン派、後期ロマン派の時代を幕引きしたのはまさしくクロード・ドビュッシーだ。
モーリス・ラヴェルでは「ダフニスとクローエ」の華麗なるオーケストレイション。冒頭のフルートのパッセージはまるで打ち込みシーケンスのような斬新でドライな感性。合唱の組み込みかたも凄い。さすがオーケストレションの魔術師と言われるだけある。ムソルグスキーのピアノ音楽「展覧会の絵」をアレンジしているが、リムスキー=コルサコフのアレンジよりオシャレで素晴らしい。それは当時最先端だったsaxという楽器の使用でもわかる。ピアノ曲「亡き王女の為のパヴァーヌ」「水の戯れ」なんか凄〜く好き。ラヴェルの「弦楽四重奏曲」もいい。ドビュッシーの天才的発想ではないにしろ最高のオーケストレイション技術、そしてきちんと理性的な感じがする。「ボレロ」のリフレインでの展開という凄いことをしつつエンディングにも丁寧さがあるのはドビュッシーよりちゃんとしている。
イゴール・ストラヴィンスキーではディアギレフ団長率いるロシアバレエ団の3大バレエ音楽「火の鳥」「ペトルーシュカ」「春の祭典」があげられる。これらは1911年から1914年頃毎年パリで初演された。このバレエ団には有名なダンサーのニジンスキーがいた。「ペトルーシュカ」のあのピアノのリズミックなリフはポップでいいし、「春の祭典」の弦楽セクションの2度4度系のリズムパッセージはロックのようにかっこいい。ロシア、ペテルスブルグ音楽院でのストラヴィンスキーの先生はリムスキー=コルサコフだが、先生は当時の学生達に「決してドビュッシーを聴いちゃいかん」と釘を刺していた。しかし当時のストラヴィンスキーはじめ学生達のアイドルはドビュッシーだったそうだ。ただロシア革命などを逃れスイスなどヨーロッパを流浪する生活から、後にアメリカでの亡命生活を送った。日本の現代作曲家、故武満徹を最初に評価したのはストラヴィンスキーで、それまでひどい扱いを受けてた武満さんはストラヴィンスキーの言葉により一気に認められることになる。また「春の祭典」は昔は超難解曲とされ、戦後まもなくの日本での東京初演では、指揮者が今どこを演奏しているのかわからなくなってしまい、スコアをめくって探しだす混乱が起き、その後木管のひとりが最後のフレーズを吹いて、それに合わせて適当に終った、というエピソードがある。勿論1914年頃のパリでもまだ一般にはロマンティックな音楽が常識な時代、初演では客席から罵声、怒号の嵐、散々なできだったらしい。
数年前シャルル・デュトワ指揮NHK交響楽団の「春の祭典」のリハーサル風景というのをNHKでオンエアしていたが、いやいや凄いのなんのって。デュトワという指揮者、確か当時のN響の首席常任指揮者ですが、彼には完全に「春の祭典」のすべての音符がカラダに染込んでるんだなあ、ということが如実にわかる光景で感動したのでした。分母がどんどん変わる「春の祭典」のスコア、20世紀の初めにストラヴィンスキーはとんでもないもの書いたんですワ。
ベラ・バルトークではなんといっても「弦と打楽器とチェレスタの為の音楽」通称「弦チェレ」はほんとうに凄い厳しい美しさの音楽。昔小沢征爾指揮ボストンシンフォニーでのナマを東京で見た。感激だった。弦楽が2グループに分け、打楽器も5〜6人使用する編成で、安っぽい情緒に流れることのない毅然とした品格が全編を支配する凄い音楽だ。他に通称「オケコン」と呼ばれている「管弦楽の為の協奏曲」(これは生活が困窮し、オーケストラに演奏してもらうヒットねらいの音楽で、事実、世界中のオケが演奏する音楽になった)、「民族舞曲」の日本の笙(しょう)のような和声もエキゾチックで興味深いし、スキャンダルな内容の舞曲「中国の不思議な役人」(関係ないけどこの題名、全く現在の状況言ってるみたいで妙に納得)、「弦楽四重奏曲」ではアレグロ・ピチカートという全編ピチカート(弓でなく指で演奏する)の曲が凄いドライヴ感ある。
ピアノ音楽のミクロコスモスの「オスティナート」もグルーヴある曲で20年前くらいにチック・コリアとハービー・ハンコックというジャズの2大ピアニストが弾いたのをナマで見たがノリがあって素晴らしかった。クラシックにはリズムのグルーヴという概念がないのでこういう音楽はコリアとハンコックという知的でグルーヴあるピアニストにはばっちりだ。バルトークはハンガリーでコダーイとともに民族音楽を採譜したので、そういう民族のリズムのような強い生き様が繁栄している感じ。フランスのドビュッシー、ラヴェル等に比べるとオシャレさはないが、バッハを尊敬し、その対位法を無調風にして自らの音楽語法を築き上げた、超真面目な人のような気がする。バルトークも晩年はアメリカに住んでいた。
結局クラシックといってもロマン派や古典派は良さはわかっていても殆ど好きになれず、このあたりばかり聴くことになっている。それはきっと3和音中心で綺麗に作曲された時代から、ノイズのような音を楽音で表現した、現代感覚....なんか綺麗だけじゃないものに新たな美意識をつくりだした先駆者たち、という気がしてならない。現在はほんとうにノイズをそのまま使用するが、封建社会貴族文化が崩壊して都会、市民文化が興る時、そこに生じた喜び悩みなどを表現する時、3和音中心だけではリアリティがなくなっていったとも言えるのだと思う。
ストラヴィンスキーやバルトークが代表作品を残した後20世紀は中期からジャズの出現で世界の音楽語法は別の角度からの刺激を受けポピュラリティ的にはそちらから発展していくポップミュージックが人々の心を捉えていく時代になる。
---写真は「読書の森」のロバさん---
